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2016年11月20日日曜日

悲しい真実 -”産学連携”の慢心と欺瞞-

3.11直後は、原発事故に端を発する放射性物質が、「日常的」にありふれた、まるで朋友かのような「安心すべき」もののようにに報道されてきた。それも東電関係の御用学者たちや政府機関によるものであり、それに追随するマスコミも敢えて特番を組んで国民に公表してきた。
それは原発事故の過小評価や当該報道と相まって、国家が恐るべき国民によるパニックを何とか抑えつけようと、更に政府および東電の故意または過失に起因する”人災”であった事実を隠蔽しようとする意図と妙に符合するものであった。
そうした報道のなかには、「放射性物質は自然界にも存在し、我々は通年で常時微量だが被曝はしている。事実、世界平均でいえば0.27μSv/hであり、今回の東京での計測結果は0.056μSv/h」「東京とニューヨークを往復すれば」
※市川定夫著「環境学」より
「人工放射線も自然放射線も、生物や人体にたいする影響は同じである」との前提は間違いである。人工放射性核種には、生体内で著しく濃縮されるものが多く、それゆえに大きな体内被曝をもたらすという、自然放射性核種には見られない特質がある。それはなぜかというと、生物の進化と適応の過程と密接な関係がある。
この地球上には、生物が現れる以前から、自然放射性核種が存在していた。その代表的なものが カリウム40である。私たちは宇宙線、地殻中からのもの、食物などを通して体内に入ったもの、合わせると、年間850マイクロシーベルト前後の自然放射線の被曝を受けている。
自然放射線のうち、体内被曝と、地殻からの対外被曝の大部分はカリウム40である。これは、生物にとって重要な元素であるから、否応なしに体内に入ってくる。しかしカリウムの代謝は早く、どんな生物もカリウム濃度をほぼ一定に保つ機能を持っているため、カリウム40が体内に蓄積することはない。生物が、その進化の過程で獲得してきた適応の結果なのである。
次に多いのはラドンであるが、希ガスであるため、体内に取り込まれたり濃縮されることはなく、すぐ体内から出ていく。
これらの自然放性物質と異なり、著しい生体濃縮を示す人工放射性物質は、いずれも自然界には存在しないものである。
例えば、ヨウ素がそうである。天然のヨウ素は、その100%が非放射性であり、生物は、この非放射性のヨウ素に適応して、哺乳動物なら、それを甲状腺に選択的に集めて、成長ホルモンをつくるのに活用する性質を獲得している。
また、ヨウ素は、海に豊富に存在するが、陸上には乏しいため、進化の途上で陸上に生息するようになった植物は、ヨウ素を効率よく高濃縮する性質を獲得してきている。つまり、現在の高等植物がヨウ素を空気中から体内に何百万倍にも濃縮したり、哺乳動物がヨウ素を甲状腺に集めるのは、いずれも、天然の非放射性ヨウ素に適応した、みごとな能力なのである。
ところが、人類が原子力によって、放射性ヨウ素をつくり出すと、進化の過程で獲得した、こうした貴重な適応が、たちまち悲しい宿命に一変し、その放射性ヨウ素をどんどん濃縮して、体内から大きな被曝を受けることになってしまうのである。
ストロンチウムも同じである。この元素の自然界での存在量はわずかであるが、この元素と科学的性質が同じカルシウムが大量に存在し、生物にとって重要な元素の一つとなっている。天然のカルシウムには、放射性のものが存在せず、それゆえ生物は、この元素を積極的に取り込んで、骨、歯、鳥の卵殻、貝殻、エビやカニの甲羅などをつくっている。つまり、カルシウムをこれら組織に蓄積、濃縮するのである。このカルシウムと化学的性質が同じストロンチウムも、これら組織に沈着、濃縮される。したがって、原子力によってスチロンチウム90をつくり出すと、28年という長い半減期をもつこの人工放射性核種が、これら組織に沈着、濃縮されることになる。ストロンチウムはベータ線をだして、骨髄などの組織に集中的な被曝をもたらす。
このように、人工放射性核種は、自然界になかったものであるため、生物をあざむき、生物が長大な進化の過程で築きあげたきた貴重な性質が、たちまち悲しい宿命に一変するのである。そして、このことこそが、原子力の最大の問題である。(転載終了)

2011年10月20日木曜日

『危機管理』


『危機管理』という言葉がある。官民を問わず、この危機管理という言葉は人口に膾炙されて久しい。この言葉は、将来起こり得る”危機”に対して、予め対策を講じる基本的な考え方も意味する。
しかしこの言葉、将来起こり得る”危機”を管理するという点に於いて、平常時は”安全”である、という反対解釈をも導く。つまり、安全である状態が正常であって、危機が異常なのであり、その異常な危機に対して事前に予測を行い対策を講じる=管理する、という発想に至るものである。
そういう発想のもとにあっては、将来起こり得る危機は明白ではあるが、それが具体的にいつ起こるものなのかは分からないが、少なくとも平常時である現在は安全であるという甘い帰結を許してしまう。
ここで敢えて『危機管理』という言葉の代替策として、『安全管理』という言葉を提案したい。ここで言う危機管理とは真逆の発想である。つまり、危機は常に存在する正常なものであり、安全こそが自然界に於ける人類にとって奇跡に近い異常な状態である、という発想に基礎を置く考え方である。この奇跡に近い偶然的な異常な状態、されども人類にとっては有益な状態を、人類の未来の為に保持し続ける為に、この安全をマネジメントするというものだ。
ところで、『危機管理』とは大自然の摂理を人類が制御することが可能であるという人間の”傲り”を徴表している側面も否定できない。大自然にあっては、人類など無力そのものであるのだから。

2011年5月29日日曜日

高速増殖炉の危険な特徴


2011年5月20日金曜日

1号機 メルトダウン

5月12日、東京電力は福島第一原子力発電所1号機の原子炉圧力容器で、炉心溶融が生じていたことを認めた。
3月12日の爆発直後、すでに15日までには関東一円が被曝していたことになる。事実、一都三県では通常の17倍から20倍の放射線量がこの日までに降り注いでいた。
メルトダウンという定義に当て嵌める確証がとれるまで公表してこなかったのであろうが、東電及び政府の対応は余りに遅すぎる。。思えば14日以降、確かに朝起きる度にNHKニュースで1号機の水位の低下を報道していた。
再臨界して3000度という高温になりながら原子炉の底部をも溶かして圧力容器の下部に固まっていることが明らかになったが、今日までの報道で圧力容器に水を入れても入れても満たされないという小学生みたいな公表をする東電のコメントから分かることは、すでに圧力容器をも貫いて格納容器の底部に溶融した再臨界真っ只中の3000度の燃料が溜まっているだろう・・・しかし、この格納容器にすら水がたまらないとも言っている・・・格納容器の原料は銅であり、融点は1500度。被覆管にはジルカゴイという合金を使っているらしく、これが溶融する際に水素を発生させるという。この水素が引火すれば水素爆発も引き起こす可能性がある。もっとも、格納容器が溶融していればこの水素も同時に拡散されて水素自体が希薄化すれば、水素爆発の起きる可能性は低くなる訳だが・・。
格納容器の下部は、コンクリートの建屋の床だ。これを溶かしながら沈下してゆけば地下水をも汚染する可能性があるし、その間に水蒸気爆発を引き起こす可能性もある。まさにチャイナ・シンドローム。そうなれば放射性物質は一気に拡散されることになる。
自然作用で鎮静化したスリーマイル島事故では原子炉土台のコンクリート上にウランの最終形と言われる鉛のような金属の塊があったというが、東電福島第一原発はどうなるのか?
また、これは1号機の話。プルトニウムをプルサーマルしている3号機は!?

この時間は13日金曜日の午前1:10であるが、外ではこの時間では珍しくカラスが何羽かうるさいほど激しく、そして不気味に啼きながら飛んでいる。。何か悪いことの前触れでなければ良いのだが・・。

2011年5月16日月曜日

東電発送電分離論と当事者適格

枝野幸男官房長官は16日午前の記者会見で、玄葉光一郎国家戦略担当相が15日の民放テレビで、送電部門を分離するなど東京電力の事業形態見直しに言及したことについて「選択肢としては十分あり得る」と述べ、今後の検討対象になり得るとの認識を示した。
東電が退職金や企業年金の減額をリストラ策の対象としていないことには「東電が置かれている社会的状況を理解していないと感じた。(東電の資産査定などを行う)第三者委員会で内部状況を政府としても把握し、国民と共有していきたい」と述べ、一層のリストラを求めた。(時事通信:
5月16日(月)12時8分配信
分離は今まで独占的に営業を行って来た巨大企業の解体という点に於いても妥当といえるが、今後起こり得る民事訴訟の当事者適格を継承する法人格は必ず残さなければならないといえる。刑事訴訟に於いては、当事者適格を保有する私人が現経営陣となる。原発事件がある程度鎮静化した折に、いつの間にか当事者適格を保有する主体が消滅していた、、というような事態にならないようしっかりと時勢を見極めて行くべきだろう。
ところで、今までに東電側は如何に甘い考えを貫いているかが見て取れる。役員は就任後に支払われた役員報酬を全額返還するのみならず、将来に於いて受け取る予定だったものも損害賠償資金や自己の会社の運転資金に回すべきであろう。血税は無論、電気料金を値上げすることで賠償原資を国民に負担させるとは、いわく東電の役員や従業員の将来の利益は保全したままで、その責任は結局国民に還元されるという暴論だ。断じて許容すべきものではない。報酬とは適正な利益があって初めて受け取れるものだ。企業年金に於いてもしかりだ。会社として従業員全員が責任を全うする態度があっても良い。経済的損害のみならず、今回の東電原発事件に於いては、全国民否、全世界の人々に対して精神的苦痛(損害)を与えている。とかく無制限に拡大されがちな損害ではあるが、東電側は”原子力損害の賠償に関する法律第3条”の但し書きを持ち出し、いわゆる異常に巨大な天災地変または社会的動乱によって生じた場合はこの限りではないと、損害賠償の責を免れる解釈を主張してきた。しかしながら、敢えて私は本条の様に『異常に巨大な天災地変』が直接的な因果によって今回の事故が生じたものではなく、あくまで人災が直接的な原因であったと断言したい。数日前からのニュース記事により、地震後津波の前には主要電源装置が働かなくなったという真実も表面化してきている。ゆえにこれは直接的には天災によって惹き起こされた事故ではなく、想定された危難に対する準備を現経営陣は故意または過失で看過した結果、さらに天災が2次的な原因となって惹起された紛れもない人災であることは明白である。立法措置に不備があれば、今回の事故(否、事件)を機に、原発事業者の無過失責任をさらに明確化させるべきであろう。東電側の認識では国民は到底納得することが出来ない。
いずれにせよ、東電発送電分離論自体はよりそれぞれの専門的な分野に特化し、なおかつ官僚主義的になりがちな組織を解体し、上流と下流で経営母体を別とすることで抑制と均衡が保てると期待出来る点から賛成できるが、これによっていつの間にか訴訟の相手方たる当事者適格のある法人や私人が不在になってしまうことのないように、引き続き注視してゆきたい。

2011年5月9日月曜日

原発反対運動と国家権力とマスコミと

東電福島第一原子力発電所の事故から2ヶ月ほどが経過しようとしているが、この間に一般市民による原発反対運動やデモ行進が日本の街の随所で行われたらしい。しかしながら日本のマスコミによる報道よりも、海外の報道からこれらの運動やデモの様子が伺えるのは、同じ日本に居ながら私は少し違和感を感じる。なぜ、日本のマスコミはこうした国民の運動を大々的に宣伝しようとしないのか?囁かれる思惑は幾つかある。東電を始め9つの電力会社が有力なスポンサーゆえに、見えない政治経済力が働いてこれら電力会社の政策に不利に働く情報は、あまり国民に対して知らせないというものや、そもそも国民の運動は”一瞬にして暴徒と化す”おそれがあり、報道が暴徒の起爆剤にならない様にするために、政策的に報道させないとする国家権力による圧力が古くから存在し、今回の運動もそうした圧力を意識した”自粛”が各報道機関にあったのだろうとするものだ。
さて、戦後間もない日本にあって、これまで治安維持法による徹底的な思想言論弾圧を生命身体的精神的に受けてきた共産主義者といわれている人々は、ポツダム宣言受諾後のGHQによる日本のいわゆる間接統治の開始によって、新憲法下の日本に至る前に社会復帰を果たした。獄中から復帰した徳田球一率いる日本共産党が合法的に再結成したのは、戦後間もない1945年のことだった。それから新憲法下にあって日本は様々なテーゼを掲げるいわゆる左翼運動が展開された。大きな盛り上がりをみせたのは日米安全保障条約が締結された60年と昭和の妖怪と揶揄・畏怖されていた岸信介総理の時代に自動延長が調印された70年安保闘争だった。この頃になると、学生運動=新左翼運動であり、ブント(共産主義者同盟)もその掲げるテーゼや思想によって、様々な会派や運動に分岐して行った。現在60歳から64歳位までの方々の世代である。(ちなみに私は30代であるが)
この頃の国家権力といえば、ひたすらこの様な新左翼運動や団体そのものを取り締まることに躍起であった。群衆は”一瞬にして暴徒と化す”という国家権力が抱く恐怖は、事実国家公務員に対しても及んでいた。国家公務員による政治活動や労働争議を完全に取り締まるという趣旨で、判例や改正立法に於いても厳格化されて来た。暴徒が国家の中枢機能である国家公務員に波及したら、もはやにっちもさっちも行かないからという訳だ。
しかしながら、ベトナム戦争が終わった70年代も半ばになると新左翼運動は鎮静化の一途に向かう団体と、一部おかしな方向に向かう団体が現れた。固有名詞は出さないが、過激な出で立ちで過激な行動をする者たち。究極的には浅間山荘事件やよど号事件など・・そして、中には大学に残りながら、オルグといって純粋な向学心の強い学生たちを理論や動機付けで口説き落として常に組織をつくりながら、即時的には大学の自治会として大学当局と対峙して学生の”権利”をかちとってゆきつつ、ときには反核運動やその他様々な政治活動をおこないその組織を維持延命させてきた。
新左翼運動が全国的に沈静化してくると、国家権力はあることに気付き始めた。この”沈静化”とは学生たち(新左翼)から見れば、確かに70年代安保闘争の敗北であり挫折であり無気力頽廃的さを醸すものであり、「もう俺たちが直接革命的に国家権力に抵抗してもどうにもならないのさ」という正論を認識させるものであり、”学生運動離れ”そのものであった。そして森田童子などを聴きながら刹那的な学生時代をせめて満喫するというような風潮が更に”沈静化”に拍車をかけた。こうした時代の作る動きを、国家権力は十分理解していた。やがて国家権力は、強化してゆく警察権力の構成する枠の範囲で、一部の新左翼運動団体を”飼う”こととしたのだ。狙いは”暴徒”と化すおそれのある群衆を作らない為だ。
つまり、一部の”過激派”といわれている団体が市中で例えば『反戦反核』を掲げてデモ行進を行い、同時に”過激派は危険キャンペーン”を警察権力が行えば、一般市民は『反戦反核運動をする者たちは一般社会から遊離した常に危険な存在なんだ』と思ってくれる。そうなると、国家の政策に反対する者たちは『一般社会から遊離した危険な存在』だと飛躍して捉える様になる。いわば必要悪として一定の範囲内で新左翼を”飼う”ことで、国家権力は世論をコントロールすることが出来るのだ。
今回の東電福島第一原子力発電所の事故に端を発し、僅少報道されているデモ行進などは、その多くが旧態依然としている新左翼のものではない。いわゆる”示威行為”と呼ばれる類の特定の団体の存在をアピールする性質のものでもない。本当に原発事故の恐ろしさを実感し、一度事故が発生してしまうともはや地球規模の問題となる原発に純粋に反対し、それを共有共感させたい人々の思いや願いが形となって現れたものに過ぎない。そういった運動には”一瞬にして暴徒と化す”というような蓋然性は認められないであろう。なぜならば、原発事故から大切に守りたい人が居るという思いや願いが人を動かしている運動であり、そもそも古いやり方で国家を転覆させるべく暴徒と化すことに意味のないことを十分理解している人々による運動だからである。
様々なしがらみや考えがあってか、とかく自粛や偏りが目立つ日本の報道機関ではあるが、一辺倒な情報のみを真に受け止めるのではなく、常に私たちそれぞれが咀嚼して考えて吸収出来るようにしたいものだ。更にネット上で様々に交錯する情報にも惑わされないようにしっかり各々分析することも必要だ。
マスコミは単に『渋谷で原発反対を掲げるデモ行進があった』という聞き手のバイアスを期待させる事実のみを簡単に公表するのではなく、参加者がどの様な立場でどういった趣旨で参加しているのかを、もっと参加者の中に入り込んで客観的に公表すべきであろう。

silichan